セクシズム

小学生だった僕は、母親が何か本当はやりたいことがあったけど、諦めて専業主婦になってるんじゃないかという、漠然とした感覚を抱いていた。子供心に、歌が好きな母は、テレビに出てるような歌手になりたかったんじゃないかと、勝手に妄想もしていた。それは事実ではなかったかもしれないし、現実はそんなにシンプルではないのは子供の時の自分には分かってなかったわけだが、例えばテレビに登場し始めていた、女性の文化人(その当時は田嶋陽子が活躍してた)を、嬉しそうに見ていた母親からも、そういった雰囲気を感じていた。

それからずっと僕は自称フェミニストだ。といっても特に何か活動をしてきたわけではないけど、母を通じて、抑圧された女性に対して心を痛めているナイーブな隠れフェミニストとして。

だいぶ経って大人になってから聞いた事だが、母が大学へ進学したいと希望した時に、祖母が「女に学はいらない」と許可してくれなかったと聞いた。浄土真宗のお寺という家柄から、いろいろな事で世間体を気にして不自由があったらしい。子供の頃、母が直接僕にそういう不満などを伝えた記憶はないが、日々の言動から滲み出ていた何かが、母が自由に生きられなかったのではないかと言う漠然としたイメージを僕にもたらしていた。実際には専業主婦を謳歌していたのかもしれないし、不満はなかったかもしれない(そう思いたい)が、今でもなんとなく、その切ない感覚だけは残っている。

最近、日本でもセクシズムに関する問題が表面化してきているが、自分が特にそれを感じ始めたのは、娘が生まれたことが大きい。それまではアニメで萌えカルチャーを楽しんだり、アイドルに対しても特に何も思うこともなかった。でも娘が生まれてからは、男の都合の良い女性像を消費する傾向の強いそれらのカルチャーを以前のように無邪気に楽しむことはできなくなった。特殊な趣味嗜好を、ちゃんとゾーニングされたエリアで楽しむ人たちがいることは、特に悪いとも思わない(例えばSMを楽しむ人がいてもいい)、ただし、10年台前後にはオタクカルチャーは完全にメジャー化し、街を歩いていても目にするようになった。僕が懸念したのは、自分の娘がこういうカルチャーを見て「女はこうあるべきなんだ」と自分を規定してしまい、可能性を狭めてしまうことだった。

海外に住むことを決めた理由の10%くらいにそれがある。特に子供の頃、母の中に感じたトラウマティックな感情を娘の中に見たくないとの思いは、僕の中に強い警戒心を呼び起こした。日本人に女性差別的な感覚が染み付いていると感じるのは、例えば海外で日本人の女性に会った時に、自然に一歩うしろに下がり、でしゃばらないように振る舞う人が多いところからも感じてしまう。男性が女性を押さえつけるだけではなくて、女性からも自然に、スッとそういうポジションに収まりに行ってしまう傾向もあると思う。長年、そういう社会に住み慣れていると、楽で害のない行動を言われなくても取るようになってしまう。

そういう社会構造が長年固定すると、女性が女性を差別するような事も出てきてしまう。実はこういった差別はいろいろなところであるらしい。例えば黒人差別でも、社会的に成功した黒人が、そうでない黒人たちを、まるで白人が差別するように見下したりするなど。また、自分の中にもこの社会の中で育ってきた中で染み付いたセクシズムは確実にあると思う。それを無くすことはなかなか簡単なことではないけど、害虫を見つけたら駆除するように、コツコツと改善し続けて行くしかない。最低でもそれが娘の将来の妨害にならないようには絶対にしたい。

あいちトリエンナーレで、津田大介さんが参加作家のジェンダー平等を実現したことが話題になっている。自然環境の中で、男女の数が同じになるのは当たり前のことなので、このことが特別だと思うこと自体が実は不自然なことではあるのだが、日本でこれを実現したのは快挙だと思う。もちろん、ゆくゆくは性別のことなど誰も気にしない世の中がくるのが理想だが、現状はあまりにも遠い。そのためのショック療法として、こういったアクションは有効だ。

マンモスと戦っていたような、男性的な強さが役に立ったりした時代はとっくに過ぎ去って、情報化が進み、”筋力”の価値が急落した社会で、いまだに性差に囚われている意味はほとんどない。今までの習慣を変えなくてはいけないタイミングにきている。

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