アート制作と"他者"について

ここ数日、推敲しつつ書いていた文章、このままだと出さずに終わりそうなので、サクッとブログをセットアップしたので載せておこう。自分の中でぼんやりと考えていたことの一部が言葉にできているんじゃないかと思う。


作品を作るという行為は、自分の中から他者を生み出すこと。そんな考えが頭をよぎった。作品を作るのは自分自身だけど、作られた作品は自分自身ではない。確実に自分の一部だったものが、違う人格を持って現れてくる。

つまり作品制作とは、自分の中に他者性を見つけ出して、そこにメスを入れて切りはなす行為なのかもしれない。その他者を自立できる状態にしたものが作品だ。

つまり、アート展とはアーティストの身体から切り取られた他者と向き合う場所だ。元は自分の体の一部だった「子供」が、生まれた瞬間から他者として歩み始めるように、作品もアーティストにとってさえ、作られた瞬間から理解を超えた存在になるし、それを観に来る人にとってはなおさら。

その切り離された瞬間に出会える場所が展覧会だ。それはある人にとっては身近に感じるかもしれないけど、ほとんどの人にとっては自分との共通点を見つけることすら難しいかもしれない。でも同じ「人間」であるアーティストが、自分と他者とを切り裂いた瞬間に立ち会う、またはその断面を目撃することにこそ、アートの価値があるのではないだろうか。

人間は必ず、他者とともに生きていかなくてはならない。それは社会的な動物の持つ宿命だ。つまり他者と自分との折り合いをどうつけていくのか、流動的に世界が変わっていく中で、常にこの問題と対峙し続けなくてはならない。アートはその役割を担える、稀少な場であるはずだ。

日本でアートの成立が難しいのもこの点にあるのではないか。日本は文化的に、他者を認める事が出来ない社会だからだ。全ての人があらかじめ「理解可能な同胞」として現れる。もし理解不可能な存在であると見なされれば、有害なものとしてコミュニティから排除される。

作品は理解可能性を求められ、展覧会はそれを確認する場になる。そこではアートは日本的な「共感」を補強するという、矮小化された役割を担わされる。分からないものは社会的の役に立たない、もしくは社会への脅威として、取り下げろ、となる。

しかし、アート展においては「理解不可能」な事にこそ、むしろ価値がある。そこには根本的に理解などそもそも不可能な「他者」が発見されるからだ。

他者とはそもそも、理解不可能なものなのだ。それは自分自身を理解できているかを考えれば簡単に想像できるだろう。そんな曖昧な自我を基準に、他者を理解可能だと考えるのは、もはや暴力的ですらある。

そんな理解を超えた他者を、自分の中でどう処理するのか、その時の自分が抱く意識・無意識含めた反応を観察し、作品/作家/鑑賞者/誰でもいいがその事について話してみる。こういった行為を続けていくことこそが、他者と生きていかざるを得ない人類が欠かさず続けていくべき事なのだ。

インターネットがなく、海で他者(他国)と切り離された安全地帯だった昔の日本ではそういった不断の努力を必要としなかったかもしれない。内部に現れる一部の他者を排除(犠牲に)し続ける事でバランスを確保できた。

でも時代が変わり、ネットインフラによって世界が接続されてしまった今、世界中の他者が突然目の前に現れ、日本こそが「一部の他者」であったことに気がつかされた。

これからこの国は、他者との向き合い方を一から学んでいく。その為にもアートとの向き合い方も変えていかないといけないし、アートから得られる体験を重ねることの大切さは増してゆくのではないだろうか。

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